万葉集百人一首


歌人別に一首ずつ百人から選びました。


No. 作者 選んだ理由
100 大伴四綱 月夜よし 川音清し いざここに 行くも去ぬも 遊びて帰かむ
大伴四綱(オオトモノヨツナ)、正六位上。大宰府の防人司佑。万葉集には五首掲載されている。防人司佑の時の歌が多い。この歌もその一つ。”月夜は良いし、川の音はきれいだ、ここで(都に)行くにしろ、行かないにしろ遊んで行こう”と詠んでいる。この歌は大伴旅人が大宰府での任を終え、都に帰るにあたって大宰府の役人が餞別を行なった時の歌。後の別れの悲しみより、月が良いから今を楽しもうという感覚なのだろう。光景がリアルに想像出来る歌である。


99 藤原八束 ここにして 春日や何処 雨障り 出でて行かねば 恋ひつつぞ居る
藤原八束(フジハラノヤツカ)、父は藤原房前、母は美濃王女、正三位、大納言。度量が広く明敏との評gあったという。万葉集には八首掲載されている。万葉後期の歌人らしく、洗練された歌とは思うが、その分物足りない。この歌は”ここから春日はどちらの方角だろう、雨で出て行かないので恋しく思っている”と詠んでいる。恋しいなら雨でも出て行けばいいのに。春日はどっちの方角だろうとか、グチャグチャ言っているなという感じがする歌である。万葉集後期の歌には、こう感じる歌が多い。


98 藤原宇合 昔こそ 難波田舎と 言はれけめ 今は京引き 都びにけり
藤原宇合(フジハラノウマカヒ)、父は藤原不比等、母は蘇我武羅自古娼子。従三位、難波宮事。常陸、肥前の風土記に関与したと言われる。長屋王の変では長屋王邸を囲んでいる。万葉集には6首掲載されている。この歌は”昔は難波田舎と言われたこの地に京を移し、今は都のようになった”と事の達成を喜んでいる。難波宮造営の責任者だった宇合が、責任を全うした歌。”都びにけり”というところに満足感を感じる。


97 丹生女王 古人の 食へしめたる 吉備の酒 病めばすべなし 貫簀賜らむ
丹生女王(ニフノオオキミ)、従四上。父母は不明。万葉集には3首掲載されえている。3首とも大伴旅人に贈った歌。この歌は”旧知の人からご馳走になる酒で気分が悪くなったら困る、貫簀(手洗い時など、自分に水が掛からないようにする為竹で編んだ垣)を頂こう”、と詠んでいる。飲んで気分が悪くなった場合の用意を相手に依頼している。落ち着いた間柄なのかも知れない。飾らない歌と思ったので選んでみた。


96 山前王 河風の 寒き泊瀬を 嘆きつつ 君が歩くに 似る人も逢へや
山前王(ヤマクマノオホキミ)、忍壁親王の子、葦原王の親。従四位下。懐風藻に五言詩が載っているとのこと。万葉集には長歌1首、短歌二首が掲載されている。石田王が亡くなった時に詠んだ、又は紀皇女が亡くなった時、石田王に代わって詠んだtも言われている。”川風の寒い伯瀬を嘆きながら君が歩いても似た(紀皇女)人にも会えない”と詠んでいる。

95 市原王 言問はぬ 木すら妹と兄と ありといふを ただ独り子に あるが苦しさ
市原王(イチハラノオオキミ)、父は安貴王、春日王の孫。四大仏造営の功により従五上、造東大寺長官。万葉集には8首詠まれている。父の安貴王、妻、自分を詠んだ歌が多い。この歌は”ものを言わないkでも妹、兄はあるのに自分は一人子であることが悲しい”と詠んでいる。淡々と事実を詠う歌風が良いと思った、又、一人子を悲しむ歌も少ないと思う。


94 賀茂女王 筑紫船 いまだも来ねば あらかじめ 荒ぶる君を 見るが悲しさ
賀茂女王(カモノオオキミ)、左大臣長屋王の娘、母は阿部朝臣。万葉集には3首掲載されているが、一首は作者がはっきりしていない。3首とも恋人に贈った歌。この歌は大伴三依に贈った歌、”筑紫に行く船がは未だ来ないのに、もう私を疎ましく思っているようで悲しい”と詠んでいる。どこかに出かけるときは期待や希望や不安で今がおろそかになりやすいものだ。そういう三依の細かな変化を読み取った歌である。


93 葛井連大成 今よりは 城の山道は 不楽しけむ 我が通はむと 思ひしものをもの 葛井連大成(フジイムラジオオナリ)従五位下、筑後守、大伴旅人の梅花会参加者の一人。万葉集には旅人との別れの歌と、景色を詠んだ歌が掲載されている。この歌は大伴旅人が京に戻った後”大宰府への道を楽しく通おうと思っていたが、これからは寂しくなる”と詠んでいる。旧知の人が去った寂しさを感じる歌である。

92 山口女王 もの思ふと 人に見えじと なまじひに 常に思へり ありぞかねつる
山口女王(ヤマグチノオオキミ)、出自は不明。巻四に大伴家持に贈る恋の歌が6首掲載されている。6首とも家持に恋を訴えている。一方、家持から山口女王への歌はない。結局、山口女王は失恋したようだ。その中で、この歌は”恋している事が人に知れないように、死にそうな思いで耐えていた”と詠んでいる。”泣いている”とか、”夢に見た”とかの表現とは異なる言い方なので選んでみた。


91 鴨君足人 人漕がず あらくも著し 潜きする 鴛鴦とたかべと 船の上に棲む
鴨君足人(カモノキミノタリヒト)、藤原宮大極殿の地を鴨公といい、そこに住んだ祭祀。万葉集には四首詠われ内二首はは長歌。四首とも藤原宮のことを詠んでいるとのこと。この歌もその一つ”ガンや鴨が船の上で住んでいる、船を漕がなくなったことが著しい”と、以前は大宮人が宮廷から戻ると船を漕いで遊んだことを懐かしんでいる。


90 厚見王 朝に日に 色づく山の 白雲の 思ひ過ぐべき 君にあらなくに
厚見王(アツミノオオキミ)、父、母は不詳。天平勝宝元年(749年)四無位より従五下とある。万葉集には3首詠われている。自然を詠んだ歌が多い。この歌は”毎朝毎日色づいて行く山に白雲が留まらず過ぎ去って行くように思いが忘れ去るような貴方ではない”と詠んでいる。他の二首も似たような歌だが、他に比べて先句の語調が良いと思ったので選んでみた。


89 池田朝臣
寺々の 女餓鬼申さく 大神の 男餓鬼賜りて その種子播かむ

池田朝臣(イケダノアソン)従五位下、少納言、出自は不詳。万葉集にはこの一首のみが掲載されている。この歌は”寺寺の女餓鬼は大神の男餓鬼を夫にもらって子どもを生み散らそうと言っている”と詠んでいる。題字に池田朝臣が大神朝臣を哂う歌、とあり、巻16-3841で大神朝臣が”仏を作る木が足りなければ池田朝臣の鼻の上に彫れ”と、哂って返しているとある。遊興の掛け合いの歌のようだ。


88 平群氏女郎
万代と 心は解けて 我が背子が 抓みし手見つつ 忍びかねつも

平群氏女郎(ヘグリウジノイツラメ)出自は不詳。万葉集には12首掲載されている。すべて大伴家持へ贈る恋の歌である。この歌は、”万代までもと約束し我が背子(家持)がつねった手を見て堪えられなくなった”と詠んでいる。この歌に対する家持の返歌は見当たらない。平群氏女郎の失恋に終わった恋のようである。


87 守部王
子らがあらば ふたり聞かむを 沖つ渚に 鳴くなる鶴の 暁の声

守部王(モリベノオオキミ)舎人親王の子、従四下。万葉集には2首掲載されている。こ歌は”妻と一緒ならば沖の州で鳴く明け方の鶴の声を二人で一緒に聞きたいものだ”と詠んでいる。妻を恋する歌のようだ。


86 田口朝臣益人
昼見れど 飽かぬ田子の浦 大君の 命恐み 夜見つるかも

田口朝臣益人(タグチノアソンマスヒト)正五位。万葉集には2首主詠まれている。この歌は上野国に赴任するに際し田子の浦に差し掛かったときに詠んだもので、”昼見れば飽きない田子の浦を大王の命により夜に見たことである”と詠んでいる。実際に夜の景色は見えなかったのだろう。王の命によりやむなく夜になった。上司の命に従う、今も昔も同ことのようだ。

85

常陸娘子 庭に立つ 麻手刈り干し 布さらす 東女を 忘れたまふな
常陸娘子(ヒタチノオトメ)、常陸の国の娘。固有名は不明。藤原宇合が任期を終え京に戻るときにこの歌を贈っている。出自は不明。遊女とも言われている。この歌は”庭に立っている麻を刈り、それを干して布を晒す東国の女を忘れないで欲しい”と詠んでいる。都に住む宮廷の女性に対する、東国の野良で働く女を対比して詠んだのだろう。別れて行く人に自分を忘れないで欲しいと歌い、宮廷の女性とは違う東女をPRしている歌だと思う。


84

高市皇子 山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく
高市皇子(タケチノミコ)、天武天皇皇子、長屋王の父、十市皇女(額田王の子)の夫。壬申の乱では天皇を助けた。持統四年太政大臣。時の政権の中枢にあった人。万葉集には3首掲載されている。どの歌も十市皇女が亡くなった事を悲しんで詠んだ歌。
この歌もその一つ。”山吹の花が咲いている所の清水を汲みに行きたいが、冥土の清水が沸いている場所が分からない”と詠んでいる。死んだ地まで水を汲みに訪ねて行きたいということなのだろう。辛い歌だと思う。

83
御名部皇女 吾が大君 ものな思ほし 皇神の つぎて賜へる われ無けなくに 御名部皇女(ミナベノヒメミコ)、天智天皇の皇女、元明天皇の姉。高市皇子の夫人で長屋王の母とも言われる。万葉集にはこの一首が掲載されている。妹にあたる元明天皇に対して、”大王よ、心配するな、皇祖神が遣わした私が側についている”、と詠んでいる。これは元明天皇が、蝦夷征伐の戦が起きることを懸念して、巻1-76で”戦の準備をしているようだ”と詠んだ歌に応えたもの。実の姉だが、臣下である立場から、”我が大王”と呼び、妹を思って”私がいるから心配するな”と姉妹の会話になっている。天皇と家臣、姉と妹が入り混じった温かみのある歌だと思う。


82

清江娘子 草枕 旅行く君と 知らませば 岸の埴生に にほはさましを  清江娘子(スミノエノオトメ)、出自は不明。”清江”とは地名であろうと言われている。清江に住む娘ということらしい。万葉集にはこの一首が掲載されている。”旅の人と分かっていたら、岸の粘土で衣類を染めてあげたのに”と詠んでいる。この旅の人とは長皇子。太上天皇が難波宮に行幸した時に清江娘子が長皇子に進呈した歌。地元の娘と旅人との会話。ほほえましく感じる歌である。


81
誉謝女王 流らふる 妻吹く風の 寒き夜に 我が背の君は ひとりか寝らむ  誉謝女王(ヨサノオホキミ)、出自は不明。慶雲3年6月(706年)従四下で没。万葉集にはこの一首が掲載されている。”一人でいる妻を吹く寒い風の日に夫も一人寂しくいるだろうか”と詠んでいる。一人でいる夫婦に寒い風が吹く。寒さが身に染むように感じる歌である。


80
高安王 沖辺行き 辺に行き今や 妹がため わが漁れる 藻臥束鮒 高安王(タカヤスノオオキミ)、長皇子の孫。別名を大原高安真人。伊予国守。万葉集には2首掲載されている。供に恋の歌。この歌は、”沖に行ったり、岸に戻ったりして妹(妻)のために私が捕った藻の中に住む鮒だ”と詠んでいる。苦労して捕ったと訴えて、自分で捕ったと自慢している。妹に良い所を見せたかったか、見せなければならなかったかは分からない。今も、昔も変わらない恋の歌のようである。


79
手持女王 石戸破る 手力もがも 手弱き 女にしあれば 術の知らなく
手持女王(タモチノオオキミ)、河内王を葬っていることから、河内王の妻かとの説がある。万葉集には3首掲載されている。どれも河内王の葬儀のときに詠んだもの。この歌は、”お墓の岩戸を破る力が欲しいが、女なのでその方法が分からない”と詠んでいる。亡くなった人のお墓を破って連れ戻したい気持ちと、それが出来ない諦めの気持ちを切々と詠んだ歌だと思う。


78
紀皇女 軽の池の 浦廻行き廻る 鴨すらに 玉藻の上に ひとり寝なくに
紀皇女(キノヒメミコ)、天武天皇皇女、母は蘇我赤兄の娘、穂積皇子の妹、弓削皇子とは異母兄妹。万葉集には弓削皇子からの贈られた恋の歌が4首、石田王が紀皇女の死を悼んだ歌が2首掲載されている。紀皇女が詠んだ歌は万葉集にはこの一首のみ。”池の淵を廻る鴨でさえ一人寂しく寝ることはないだろう”と自分を寂しがっている。鴨よりも自分が寂しいという表現に違和感はあるが、万葉集にはこの類の表現(比喩歌)は多い。


77
沙弥満誓
(笠朝臣麻呂)
鳥総立て 足柄山に 船木伐り 木に伐り行きつ あたら船木を
沙弥満誓(サミマンセイ)、笠沙弥とも。美濃の守、尾張守を歴任。太上天皇の不予により出家して”満誓”と称した。万葉集には7首詠まれている。この歌は、”船用の木として足柄山から良い木を切って行かれてしまった、惜しい木であったのに”と詠んでいる。これ比喩歌、良いと思っていた女性が他人に嫁してしまったことを嘆いた歌。嘆いても後の祭り、それとも当時は嘆けばなんとかなることもあったのだろうか?、今ほど婚姻関係がはっきりせず、男の人も女の人も憚ることなく何度も結婚出来た時代らしい。そう思うとこういう歌も意味があって歌われたのだと思えてくる。


76
元正天皇 あしひきの 山行きしかば 山人の 我れに得しめし 山つとそこれ
元正天皇(ゲンショウテンノウ)、天武天皇の孫、母は元明天皇、日並皇子の皇女、文武天皇の姉。各地を行幸したり、「日本紀」を作ったり多くの業績があるようだ。万葉集には5首詠まれている。自然や、家来との関わりを詠んだ歌が多い。この歌もその一つ、”山に行ったら山人が私にこの土産をくれた”、と詠んでいる。おそらく従者に土産を示して詠んだのであろう。土産をもらってそれを皆に見せる、従者との楽しげな光景が浮かぶようである。


75
山上憶良 世間を 憂しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば
山上憶良(ヤマノウエノオクラ)、第七次遣唐使、伯耆守、筑前国司を歴任。万葉集には長歌11、短歌66、旋頭歌1首が歌われている。殆どが庶民の歌、貧しさの歌、思想的な歌である。この歌もその一つ、”世の中が辛く悲しい、どこかに行ってしまいたいが鳥ではないのでそれが出来ない”と詠んでいる。どこかに行ってしまいたいが、子どもや家族を残してそれは出来ないということのようだ。憶良の歌の特徴をよく現している歌である。


74
長田王 山辺の 御井を見がてり 神風の 伊勢処女ども 相見つるかも
長田王(ナガタのオオキミ)、長皇子の子、天武天皇と大江皇女の孫。天平6年春朱雀門の歌垣に風流歌人として参加。和銅五年夏、天皇の名代として伊勢に奉仕。この歌は伊勢に行く時に作った歌。”山之辺の井戸を見るついでに、伊勢の美しい乙女たちを見た”と詠んでいる。長田王の歌は万葉集に6首歌われている。どれも旅の途中でのことを詠んだ歌であるが、この歌は独身男性の旅の中での楽しい一コマのような歌だと思う。


73
阿部女郎 わが背子が 著せる衣の 針目落ちず 入りにけらしも わが情さへ
阿部女郎(アベノイツラメ)、出自は不詳。志貴皇子、中臣東人、大伴家持との贈答歌が万葉集に残されている。但し、その歌が同一阿部女郎か不明とのことらしいが、歌は全て恋の歌である。この歌は”我が夫が着る服の縫い目全部に私の情が入っているようだ”と詠んでいる。針の縫い目を歌いながら激しい情熱を感じる歌である。


72
中臣女郎 直に逢ひて 見てばのみこそ たまきはる 命に向ふ 我が恋止まめ
中臣女郎(ナカトミノイツラメ)、出自は不詳。万葉集には大伴家持に贈る恋の歌が五首掲載されている。この歌は”直接会えば恋は止むかもしれないが会えないので止むことが出来ない”と詠んでいる。恋の歌を家持に送ったが、家持からの返事は見当たらない。五首の歌を見ていると中臣女郎は家持の気持ちが自分に向いていないことに気がついていたようだ。歌があきらめの歌に変わって行っている。結局、中臣女郎は失恋してしまったようだ。

71
田辺福麻呂 あり通ふ 難波の宮は 海近み 海人娘子らが 乗れる舟見ゆ
田辺福麿(タナベノフクマロ)、出自は不詳。橘諸兄、大伴家持と交流があった。田辺福麿歌集があり、万葉集には歌集とあわせて長歌10首、短歌41首と多く詠まれている。景色や都の、宮中のことを詠んだ歌が多い。この歌もその一つ”いつも通う難波宮の満ちは海が近く海の娘たちが乗っている船が見える”と詠んでいる。景色を淡々と詠んでいる歌である。


70 丹比真人国人 明日香川 行き廻る岡の 秋萩は 今日降る雨に 散りか過ぎなむ
丹比真人国人(タヒノマヒトクニヒト)、出自は不明。従四下などの官位についている。橘奈良麿の乱に連座し、伊豆に流された。橘諸兄と交流があった。万葉集には四首掲載され、一首は長歌である。花や景色を詠んだ歌が多い。この歌はその一つ、”明日香川が回っている岡の秋萩は今日の雨で散ってしまうだろうか”と詠んでいる。


69 橘諸兄 降る雪の 白髪までに 大君に 仕へまつれば 貴くもあるか
橘諸兄(タチバナノモロエ)、葛城王とも。天平8年橘姓を受ける。大伴家持との親交が深かった、万葉集の撰者という説もあるという。従五位下から従一位左大臣となり天皇行幸中の留守役や、難波宮を皇都とする勅を述べる等、宮中の行事の中心的な人だった様子。景色や天皇との関係を詠んだ歌が多い。この歌もその一つ。”雪のように髪が白くなるまで天皇に仕えたので貴いことである”と詠んでいる。天皇に仕えて働いてきた喜びを素直に歌っていると感じる歌である。


68 高田女王 我が背子に 復は逢はじかと 思へばか 今朝の別れの すべなかりつる
高田女王(タカタノオオキミ)、長皇子の孫、高安王の女。万葉集には7首詠まれている。恋の歌が多い。今城王との間で、今城王の浮気に悩む歌が歌われている。この歌もその一つ。”私の愛人に二度と会えないと思うと今朝の別れはなんともやり切れない”と詠んでいる。失恋を予感した女性の切なさを感じる歌である。


67 聖武天皇 秋の田の 穂田を雁がね 暗けくに 夜のほどろにも 鳴き渡るかも 聖武天皇、文武天皇の皇子、母は藤原不比等の子の藤原宮子。国分寺の建立、東大寺の創建等仏教への帰依が厚かったと言う。万葉集には11首詠まれている。多くは季節詠んだもの。この歌もその一つ、”秋の田んぼの上を暗いうちから雁が鳴いて渡って行く”と詠んでいる。田んぼの稲と雁の渡り、最近はなかなか見れなくなった光景だと思う。


66 門部王 あらかじめ 君来まさむと 知らませば 門に屋戸にも 珠敷かましを
門部王(カドベノオオキミ)、長皇子の孫、高安王の弟。当時門部王と名乗る人は二人いたらしい。その区別は付けられないとのこと。一人は長親王の孫、他の一人は家系不明とのことらしい。二人合わせて万葉集には6首掲載されている。恋の歌や、人と会うのを楽しむ歌がある。この歌は”君が来ると判っていたら門や家の前に玉を敷いて迎えたものを”と詠んでいる。人を迎えることを心から喜んでいると感じる歌である。


65 車持千年 滝の上の 三船の山は  畏けど 思ひ忘るる 時も日も無し
車持千年(クルマモチノチトセ)出自、家系は不明。吉野、難波の行幸に従駕している。女性か?とも言われている。始めに自然を詠んで、後の句で自分の気持ちを詠む歌が多い。この歌もその一つ、”滝の上の三船山は恐れ多いが、残して来た妻を忘れた時も日もないと詠んでいる。妻を忘れる時も日もないと詠んでいるが、あまり切実な感じがしない。万葉集の後期は技巧に走る歌が多いと言われている。この歌もそういう種類の歌だろうかと感じる歌である。


64 久米広縄 君が家に 植ゑたる 萩の初花を 折りて挿頭さな 旅別るどち
久米広縄(クメノヒロナハ)万葉集後期、越中等で判官、税帳使などの役目だった様子。大伴家持、大伴池主との宴の席での歌がある。家系は不明。万葉集の後期らしくきれいに表現された歌が多くゴツゴツした感じがない。この歌もその一つ、広縄が役目を終えて帰京する時、大伴池主の家にたまたま行った時に萩の花を見て詠んだ歌。”別れる人たちよ、萩の花を折って簪にしよう”と詠んでいる。別れを誇張することなく淡々と詠んでいると感じる歌である。


63 甘南備真人伊香 うち靡く 春を近みか ぬばたまの 今夜の月夜 霞みたるらむ
甘南備真人伊香(カムナビノマヒトイカゴ)、伊香王とも言われる。従五位下、備前守、越中守を勤める。30代敏達天皇の後裔とも。万葉集には4首詠まれている。景色や季節を詠んだ歌が多い。この歌は”春が近づいている為か、今夜の月が霞で見える”と詠んでいる。春の霞んだ月が想像できると感じる歌である。


62 巫部麻蘇娘子 >我が屋前の 萩の花咲けり 見に来ませ 今二日ばかり あらば散りなむ
巫部麻蘇娘子(カムナギベノマソノオトメ)中臣系の氏族の娘。万葉集には4首詠まれている。全ては恋の歌である。この歌は”家の萩が咲いているので見に来て欲しい、後二日もすれば散ってしまう”と詠んでいる。早く逢いたいことを萩の花が散る日数で訴えている。素朴な感情を感じる歌である。


61 河辺宮人 難波潟 潮干なありそね 沈みにし 妹が光儀を 見まく苦しも
河辺宮人、河辺宮(飛鳥)の宮人のこと。人名とは異なる。この名で万葉集には五首詠まれている。この歌は”難波潟の潮よ干くな、海に沈んだ妹の姿を見るのが苦しい”と詠んでいる。妹が海で亡くなる事故でもあったのだろうか、万葉集を読むと、こういう歌を時々目にする。なんとも悲しい歌である。


60 春日蔵首老 三川の 淵瀬もおちず 小網さすに 衣手濡れぬ 干す子はなしに 春日蔵首老(カスガノクラノオビトオユ)法師名は弁基。還俗し、位は従五位下。万葉集には9首詠まれている。歌の殆どが旅の途中で詠んだ歌。この歌もその一つ、滋賀県か愛知県に旅をしたときの歌。川の浅瀬をくまなく網で魚を獲り、袖が濡れたが乾してくれる女子がいない、と詠んでいる。万葉集ではよく見かけるタイプの歌。旅での苦労、寂しさが現れていると感じる歌である。


59 天智天皇 わたつみの 豊旗雲に 入日さし こよいの月夜 さやに照りこそ 天智天皇(テンチテンノウ)、父は舒明天皇、母は皇極天皇。持統、元明、弘文天皇の父、天武天皇、間人皇后の兄。藤原鎌足と大化の改新を行なった。難波、近江宮へ遷都。近江天皇とも呼ばれる。万葉集には長歌を含め四首よまれている。この歌は”海上の旗のような雲に入日がさしている、今宵の月夜は清らかだろう”と詠んでいる。天智天皇による天気予報、当たったのかどうか。雲が旗のように出ているのだから風はなさそうだ。穏やかな海に月が清らかに出たのだろう。天気予報は当たったように思う。


58 大原今城 恨めしく 君はもあるか 宿の梅の 散り過ぐるまで 見しめずありける 大原今城(オオハラノイマキ)坂上郎女と穂積皇子の子とも、大原姓を賜り大原を名乗った。万葉集には8首詠まれている。家持等との宴の席で詠んだ歌などがある。この歌もその一つ。梅の花が散るまで見せない君は恨めしい人だ、と、この宴席の主人(中臣清麿)を責めている。宴席での主人を責めるようにして実は立派な梅を持っていると誉めている歌。ダイレクトな表現で自分の気持ちを伝えていた防人等の歌とは全く異質で言葉の遊びになっていると感じる歌である。万葉集も最後の方は歌も変化して万葉集らしさが消えていると言われている。この歌は最後の巻の巻20に記載されている歌。らしくない万葉集、と思ったので選んでみた。


57 大伴百代 恋ひ死なむ 後は何せむ 生ける日の ためこそ妹を 見まく欲りすれ 大伴百代(オオトモノモモヨ)は筑紫鎮西府副将軍、豊前守。万葉集には7首詠われている。恋の歌が多い。この歌はその一つ、恋に死のうとしている時に会っても何になろう、生きていく為にこそ会いたいものだ、と詠んでいる。恋人に会いたい為に贈った歌なのだろう。巻4-559〜562は百代の恋の歌が掲載されている。どの歌も未だ会えていない歌である。結局、百代はこの恋人とは会うことを成就出来なかったのかもしれない。

56 大伴三依 我妹子は 常世の国に 住みけらし 昔見しより 変若ましにけり 大伴三依(オオトモノミヨリ)旅人の父、安麿の甥。御行の子。遠江守、出雲守等を歴任。万葉集には5首詠まれている。この歌は旅で離れていたものが再会を喜んだ歌。我妻は昔見ていた時より、若く見える、不老の国に住んでいるのだろうか、と詠んでいる。久しぶりの再会。多少の誇張やお世辞も当然。再会を喜んでいる興奮がそのまま現れているように思う歌である。


55 大伴三中  竹敷の 黄葉を見れば 吾妹子が 待たむと言ひし 時そ来にける 大伴三中(オオトモノミナカ)、父、母は不明。遣新羅副使、判事等を経て天平19年、刑部大判事となった。万葉集には4首掲載されている。この歌は新羅へ行く途中に対馬の美津島町竹敷の港で詠んだ歌。紅葉を見て出かける時に妻が待つと言った季節になったことを知った、と詠んでいる。家を出て一年経っても未だ行く途中、時間か掛かっていたことに驚かされる。ついつい、二人の間を同情してしまう歌である。


54 大伴書持  冬継ぎ 春は来たれど 梅の花 君にしあらねば 招く人もなし 大伴書持(オオトモノフミモチ)、大伴旅人の子、大伴家持の弟。万葉集には12首掲載され、梅等の季節に関係して家持と唱和する歌が多い。この歌もその一つ、一説には家持の作とも言われている。冬の次に春が来て梅は咲いたが貴方以外にこの梅を見せたい人がいないので招く人がいない、と詠んでいる。きれいに歌いすぎてあまり真実味を感じない、家持の作という説を本当かも知れないと感じさせる。その中では真実味を感じる歌と思ったのでこの歌を選んでみた。

53 大伴駿河麿  相見ずて 日長くなりぬ このころは いかに好去くや いふかし吾妹 大伴駿河麿(オオトモノスルガマロ)、大伴旅人の弟の道足の子。757年橘奈良麿の謀に連座し、弾劾を受けるが、後の蝦夷討伐などで度々武勲を挙げた武人。万葉集には11首掲載され、殆どがこの歌のように女性に恋心を伝える歌である。この歌は大伴坂上郎女に贈った歌で、久しく会っていないがどうしているか気がかりだと詠んでいる。坂上郎女は巻4-649で頻繁に来ていた使いが来なくなったの何かあったと思っていたと応えている。恋の結末はどうなったか知らないが、駿河麿の心は坂上郎女に見透かされていたのかも知れない。


52 大伴像見 秋萩の 枝もとををに 置く露の 消なば消ぬとも 色に出でめやも 大伴像見(オオトモノカタミ)、父、母は不明。位は従五位上。万葉集には5首掲載されており、全て恋の歌である。この歌もその一つ、秋萩の枝をたわませて露が降り、露のように私は消えても貴方のことは表に出しません、と詠んでいる。この歌の贈り先は不明。いろんな方法で女性の気を引こうとしたことが窺い知れる歌である。


51 大伴池主  縦様にも かにも横様も 奴とそ 我れはありける 主の殿門に 大伴池主(オオトモノイケヌシ)、父、母は不明。聖武天皇の河内行幸に同行し、大伴家持と親交があったらしい。橘奈良麿の陰謀に関与し投獄された。万葉集には長歌と短歌計29掲載されている。中には冗談めいた歌がある。この歌はその一つ、縦にもなり、横にもなって貴方の為に”やっこ”のようになっている私です、詠んでいる。ここで貴方とは家持のこと。家持とは主従の関係にあったのかも知れない。やっこと自分から言うような事は少ないと思う。今のお笑い人のような人なのかも知れないと思った歌である。


50 大伴田主  遊士に われはありけり 屋戸かさず 還しし我れぞ 風流士にはある 大伴田主(オオトモノタヌシ)、大伴安麻呂の子、母は巨勢郎女、大伴旅人とは異母弟。容姿端麗で風流に富、見る人は皆嘆息したという。万葉集にはこの一首が掲載。この歌は石川郎女(1)が、結婚しようと老婆の形で田主の家に宿を借りに行ったが、田主はそれに気が付かず断って帰してしまった。後で、石川郎女が事が成就出来なかったことを悔やみ、”私を宿を貸さなかったあなたは風流を理解しない偽風流士”(巻2-126)との歌を贈った。この歌はその歌に応えたもの。”自分は風流士だからこそ宿を貸さなかった”と詠んでいる。容姿端麗な風流士と押しかけ女房の失敗遍。面白い小説を見るようである。


49 藤原夫人  我が岡の おかみに言ひて 降らしめし 雪のくだけし そこに散りけむ 藤原夫人(フジワラノブジン)、藤原鎌足の娘で名は五百重娘、天武天皇の妻。万葉集には2首掲載されており、この歌はその一つ。天武天皇から”私の里には大雪降ったが、あなたの里では未だだろう”(巻2-103)との歌に合わせて詠んだ歌。”どうせ、私の里の神に願って、降らせた雪のかけらが散ってきたのだろう”と返している。天武天皇との対話の一遍。天皇の里より、自分の里が由緒深いと言っているだろう。面白く感じる歌である。


48 巨勢郎女  玉葛 花のみ咲きて ならずあるは 誰が恋にあらめ 我れ恋ひ思ふを 巨勢郎女(コセノイツラメ)、巨勢人の子、大伴安麻呂の妻、大伴田主の母。万葉集にはこの一首だけが掲載されている。大伴安麻呂が”実らぬ恋には恐い神がとり付く”(No.47)(巻2-101)という誘いの歌に応えて贈った歌。”実がならない思っているのは誰だろう、私は恋しく思っている”と詠んでいる。結局、この恋は成就した。万葉集に言われる素朴でダイレクトな表現を、少し弱腰の男性に自分の思いをダイレクトに言っていると感じる歌である。


47 大伴安麻呂  玉葛 実ならぬ木には ちはやぶる 神ぞつくといふ ならぬ木ごとに 大伴馬飼の子、大伴旅人の父。大伴大納言大将軍とも。太宰師を勤める。言わば大伴氏の中心であり、当時の政権の中枢にあった人。万葉集には2首詠われている。この歌はその一つ、巨勢郎女を誘っている歌である。実のならない葛の木には恐い神がつくとの例えから、実のらない恋にも恐い神が付くと詠んでいる。結局この恋は実り、巨勢郎女は安麻呂の妻になったとのこと。


46 久米禅師 梓弓 弦緒取りはけ 引く人は 後の心を 知る人ぞ引く 伝承は不明。禅師が僧の意味を現すものでもなく、僧であるかどうかも不明。万葉集にはこの歌を含めて3首掲載されているが、どれも石川郎女との掛け合いの歌である。この歌もその一つ。石川郎女(2)が”弓を引かなければ気持ちを寄せるかどうか解らない”(巻2-97)という意味の歌に答えて贈った歌。先々まで心がわかっている人が弓を引くものだと詠んでいる。No.45と46とで当時の男女の駆け引きが垣間見れる歌である。


45 石川郎女(2) み薦刈る 信濃の真弓 引かずして 弦はくるわざを 知ると言はなくに 石川郎女(イシカワノイツアメ)は万葉集には同名で数人の人が掲載されtれいる。この石川郎女はそれらの人とは別の人。伝承は不明。万葉集には2首掲載されている。いずれも久米禅師との掛け合いの歌である。この歌もその一つ。久米禅師から”弓を引いても嫌と言うだろうな”(巻2-96)との歌に対して応えた歌。弓を引かなければ判らない”と詠んでいる。

44 川島皇子  白波の 浜松が枝の 手向け草 幾代までにか 年の経ぬらむ 天智天皇の第二子。大津皇子の謀反を密告した人と言われている。この歌は有馬皇子が浜の松を読んだ巻2-142、143と関係があるのではないかと言われている。謀略によって処刑された有馬皇子と、謀反を密告した川島皇子と、時は違ってもなにか感じるものがあったのかもしれない。浜の松の枝に掛けられた手向草はもう何代経っているのだろうかと詠んでいる。やはり、有馬皇子の歌と関係があると感じる歌である。

43 長屋王  宇治間山 朝風寒し 旅にして 衣貸すべき 妹もあらなくに 長屋王(ナガヤノオオキミ)は高市皇子の子、天武天皇の孫。右大臣、左大臣となり政権の中心にあったが藤原氏の讒言にあい謀反の疑いで自殺した。自分の邸宅に詩人や新羅の人を招待し、しばしば詩宴を開いたと言われる。そうした歌は「懐風藻」に多く乗っているようだ。末期はともかく万葉人の優雅さを伝えるにふさわしい人と思う。この歌はそういう歌の一つなのだろう。旅の歌だが、旅をして寒い朝風に遭っているが、衣を貸してくれる人がいないと詠んでいる。あっさりと、淡々と詠んでいると感じる歌である。


42 舒明天皇 夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず 寐ねにけらしも 舒明天皇(ジョメイテンオウ)は敏達天皇の孫、皇極・斉明天皇を皇后とし、天智、天武天皇、間人皇女の父。万葉集に載っている歌は少なく2首のみで一首は長歌。この歌はその内の短歌。夕方にいつも鳴いている鹿は今宵は鳴かないで寝てしまったようだと詠んでいる。夕方には鹿の鳴く声も待ち遠しかったのかと感じる歌である。


41 雄略天皇 夕されば 小倉の山に 伏す鹿の 今夜は鳴かず 寐ねにけらしも 勇猛な天皇として知られる。宋書「倭国伝」の倭王武は雄略天皇であろうと言われている由。古事記や日本書紀には求婚の歌が多いとか。万葉集には2首掲載されており、この歌はその一つ。他の一首は巻1−1で万葉集の最初の歌である。この歌は舒明天皇の歌と良く似ていて山に寝る鹿は今宵は鳴かないと詠んでいる、勇猛で知られる天皇でも鹿の鳴き声えを気にかける細心さを感じる歌である。


40 狭野弟上娘子  逢はむ日の 形見にせよと たわやめの 思ひ乱れて 縫へる衣ぞ 狭野弟上娘子(サノノオトガミヲトメ)の伝詳は不明。中臣宅守に娶られ、宅守が越前に流されるとき、別れを悲しんで詠んだ歌が巻15に多く掲載されている。この歌はその一つ。会わない日の形見にするようにとか弱い女の私が思い乱れて縫った服だ、と詠んでいる。又会うことを願って、忘れないための形見を必死に縫ったことが想像できる歌である。


39 中臣宅守 我妹子が 形見の衣 なかりせば 何物もてか 命継がまし 中臣宅守(ナカトミノヤカモリ)は中臣東人の子、天平10年頃に狭野弟上娘子を妻とした。妻に娶った後、越前に流されたとき、妻と別れを悲しむ歌が巻15に多く掲載されている。この歌もその一つ。妻の形見の衣がなかったならば、何を頼りに別れに耐え生きて行こうか、と詠んでいる。別れの辛さを妻に激しく訴えていると感じる歌である。


38 高橋連虫麿
(虫麿歌集) 
筑波嶺の 裾廻の田居に 秋田刈る 妹がり遣らむ 黄葉 手折らな 高橋連虫麿(タカハシノムラジムシマロ)の出自は明確ではないが常陸国司藤原宇合の部下と言われている。万葉集に虫麿の歌は2首だが、虫麿歌集の歌は虫麿自身の作と見られている。この歌は虫麿歌集のから万葉集に載せられた歌29首の一つで、旅で筑波山に登った歌の反歌。田で稲刈りをしている娘へのプレゼントに黄葉を手折ってやろう、というもの。旅の途中で見た娘に、長旅の憂い癒したい気持ちが表れているように思える歌である

37 当麻真人麻呂妻 我が背子は 何処行くらむ 奥つもの 陰の山を 今日か越ゆらむ 当麻真人麻呂妻(タギマノマヒトマロノメ)は夫(当麻真人麻呂)が持統6年(692年)伊勢行幸に従駕したこと以外明確になっていないようだ。万葉集には2首掲載されている。この歌は夫の伊勢行幸の折り、家で待つ妻の気持ちを歌っている。夫は今ごろ何処を旅しているだろうかと、夫の旅を案じている歌である。

36 大伴田村大嬢  故郷の 奈良思の岡の 霍公鳥 言告げ遣りし いかに告げきや 大伴田村大嬢は大伴坂上大嬢の異母姉。田村の里にいたので田村大嬢と呼ばれた。坂上の里にいた坂上大嬢とは様子を尋ねるのに歌の贈答で行ったようだ。仲が良かったのだろう、会いたいとか恋しがる歌が多い。この歌はその一つ。古い京で鳴いている鴬を伝言にやったがなんと言って告げただろうか、と聞いている。ちゃんと伝えたかどうか問う、日常の会話のような歌である。

35 大伴坂上郎女  我が背子が 着る衣薄し 佐保風は いたくな吹きそ 家に至るまで 大伴坂上郎女は大伴坂上大嬢の母、家持の叔母にあたる。万葉集には84首と多く掲載され、女性の中心的な作者である。娘の坂上大嬢を可愛がり、その夫の家持にも叔母、母としての愛情を注いだ。この歌は家持を思いやった歌で、薄い着物を着ている家持が家に帰り着くまで冷たい風よ吹くなと詠んでいる。娘の夫を思いやる歌。娘も甥も可愛かったのだろう。大嬢を家持に嫁がせたのは坂上郎女とも言われている。


34 大伴坂上大嬢  月草の 移ろひやすく 思へかも 我が思ふ人の 言も告げ来ぬ 坂上大嬢は大伴坂上郎女の娘、大伴家持の従姉妹で家持の妻。家持は恋の歌を坂上大嬢に多く送っている。大嬢もそれに応えて恋の歌を贈っている。この歌はその中の一首で”自分が移りやす気持ちでいるからか、貴方から何も言ってこない”と半分自分を攻め、半分はもっと言ってきて欲しいと訴えている。自分を攻めて訴える、半分スネているようだ。家持は他の女性にも恋の歌を多く贈っている。当時は一夫多妻なので普通の習慣だが正妻はどう思っていたのか。当時一般に正妻は政治、利益の面から親が決めた。そして子供は好きな人を妻にしたらしい。スネられた家持はこの後も大嬢に恋の歌を贈っている。

33 長忌寸奥麻呂  引間野に にほふ榛原 入り乱れ 衣にほはせ 旅のしるしに 長忌寸奥麻呂(ナガノイミキオキマロ)の伝承は知られていない。この歌は大宝2年(702)、前の天皇だった持統天皇が三河地方を行幸する際、餞別に贈った歌とされる。”馬を休めに入った榛原で、旅の記念に色着いた榛の木の匂いを衣につけろ”と詠んでいる。奥麻呂は旅の歌を得意にしたと言われている。この歌も、いかにも旅を好んだことを思わせる歌だと思う。

32 中皇命  たまきはる 宇智の大野に 馬なめて 朝ふますらむ その草深野 中皇命とは準天皇の意味で用いられ、間人皇后、磐姫大后説など諸説あるようだ。歌は大野に馬を並べて草深い野を踏んで狩をする様子を想像して詠んだ歌である。狩をしている人は舒明天皇と伝えられている。その天皇を思っての歌であろう。朝の早い時間に馬を何頭も並べて狩をしている様子が想像できる歌である。

31 高市黒人  いづくにか 吾れはやどらむ 高島の 勝野の原に この日暮れなば 高市黒人(タケチノクロヒト)は旅の歌が多く、下級の地方官人であったろうと伝えれている。万葉集には16首詠まれており、この歌は旅の歌7首のうちの一つ。一人旅だったのだろうか、勝野の原で日が暮れたならどこに自分は泊ろうかと、不安な心情を覗かせている。

30 日並皇子  大名児を 彼方野辺に 刈る草の 束の間も 我れ忘れめや 日並皇子は天武天皇の皇子、母は持統天皇。文武,元正天皇の父。日並皇子の歌で万葉集に掲載された歌はこの一首のみ。この歌は石川郎女に贈った歌。野原で刈った草の一握りの間ほどもあなたを忘れないと詠んでいる。

29 吹黄刀自  河上の 湯津磐村に 草むさず 常にもがもな 常処女にて 吹黄刀自(フキノトジ)が十市皇女の伊勢神宮参拝に随行したおり詠んだ歌。刀自とは一家の主婦の意味。吹黄刀自は万葉集に3首掲載されているが生い立ち等は不明。この歌は自分が仕える十市皇女がいつまでも清らかで綺麗なままでいることを願って詠んだ歌である。十市皇女はそのとき2〜3歳、吹黄刀自は何歳か不明だが皇女が可愛かったのだろうと思う。

28 高市古人  古の 人にわれあれや ささなみの 故き京を 見れば悲しき 高市古人は良く知られていない。高市黒人のま違いではないかとも伝えられている。万葉集には巻1-32、と33があり、この歌はその一つの巻1-32。旧都、近江の大津宮が遷都の後に荒れて廃墟となっていることを嘆いている歌である。巻1-33も荒れた旧都を詠んでいるが、この歌は自分は古い人だろうかと言っているところに感じるところがる。

27 長皇子  秋さらば 今も見るごと 妻恋に 鹿なかむ山ぞ 高野原のうへ 長皇子は天武天皇第四皇子。天智天皇皇子の志貴皇子との宴の席詠んだ歌と伝えられている。秋になれば妻を恋しがる鹿が鳴くので、秋になったら又来て欲しい。と詠んている。いとこ同志気が合っていたのだろう。鹿の鳴き声を予想する二人の光景が思い浮かべられるような歌である。

26 麻続王  うつせみの 命を惜しみ 浪にぬれ 伊良虞の島の 玉藻刈りをす 麻続王(ヲミノオオキミ)は伝承不明の人。天武四年'675年)伊勢、又は常陸、或いは因幡に流されたと伝えられている。この歌では伊良虞(伊勢)となっており、そこから伊勢に流された説がある。流された悲しみからか”うつせみの命”と称し、伊良虞の藻を取って食べていると詠んでいる。天武天皇の皇権強化策に反対した他の多くの皇族も麻続王同様に流されたといわれている。

25 軍王  山越しの 風を時じみ 寝る夜おちず 家なる妹を 懸けて偲びつ 軍王(イクサノオオキミ)は百済王朝から帰化した人と伝えられている。それ以上は不明。万葉集には2首詠われている。巻1-5(長歌)と、この巻1-6(反歌)である。”山を越して季節でもない風が吹き、毎晩家の妻を偲んでる”と詠んでいる。落ち着いた風情を感じる歌である。

24 弓削皇子  いにしへに 恋ふる鳥かも 弓絃葉の 御井の上より 鳴き渡り行く 弓削皇子は天武天皇の第6皇子、母は天智天皇皇女。この歌は額田王に贈った歌。天武天皇と額田王との間には十市皇女がいる。かつての父の愛人、額田王に、その子供が父を偲んで贈った歌らしい。年をとった額田王はこの歌に巻2-112の歌で唱和している。

23 大伯皇女  わが背子を 大和へやると さ夜ふけて あかとき露に わが立ちぬれし 大伯皇女(オホクノヒメミコ)(大来皇女)は天武天皇の皇女で大津皇子の姉。大津皇子が謀反の疑いで処刑される前、伊勢にいた姉の大伯皇女を訪ねた時の歌。弟の先行きをきずかって大和へ向かう弟を見送っている心情が現れている。大伯皇女の歌は万葉集に6首歌われている、全てが大津皇子の事を詠んだ歌。この歌はその最初の歌である。

22 有馬皇子  磐白の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また帰り見む 有馬皇子は孝徳天皇の子。斉明天皇の時、謀反の疑いを掛けられ17歳で世を去った。蘇我赤兄の謀略にかかったと言う説が多い。この歌は疑いをかけられ、中大兄皇子(後の天智天皇)に召される時、運が良ければ又帰って松の枝が見れるようにと願って松の枝を結んだというもの。結局、二度とこの松を見ることはなかった。憐れさのつのる歌である。

21 笠女郎  我がやどの 夕蔭草の 白露の 消ぬがにもとな 思ほゆるかも 笠女郎が大伴家持に贈った歌の一つ。笠女郎は24首の歌を家持に贈っている。家持とは身分の違いがあったなだろうか、結局は笠女郎は失恋し、24首の多くは失恋の歌である。家持の歌は黙っていれば良かったとそっけない(巻4-613)。この歌は、そういう間柄の中で、白露のように消えないで欲しい、と願う耐えた気持ちを美しく詠んでいる歌だと思う。

20 大津皇子  あしひきの 山のしづくに 妹待つと わが立ち濡れし 山のしづくに 大津皇子は天武天皇の第三皇子、天武天皇崩御の後謀反が発覚し処刑された。この歌はそれよりも前に石川郎女に送った歌。貴方を山の雫の中で待っていたら、山の雫で濡れてしまった、と詠んでいる。心情と情景が思い描ける歌で、複雑な歌でもなく判りやすい歌だと思う。

19 石川郎女(1)  我を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを 石川郎女がNo.20の大津皇子の歌に応えて詠んだ歌。石川郎女は万葉集には同名で何人も現れているが、その1人。私を待って濡れてしまったその山の雫になりたいものだ、と詠んでいる。石川郎女のことは殆ど知られていないが、大津皇子の歌にうまく応じていると感じる歌である。

18 穂積皇子  今朝の朝明 雁が音聞きつ 春日山 もみちにけらし 我が心痛し 穂積皇子は天武天皇の皇子、母は藤原鎌足の娘。この歌は、今朝雁の鳴き声を聞いた、春日山は紅葉しただろうかと思うと悲しくなる、というもの。雁がなくことと、紅葉したことが悲しいと言う。穂積皇子の境遇がこのようなことを悲しく感じさせるのだろうと書く本が多い。そうなのだろうと思う。但馬皇女と恋愛関係にあったと伝えられ、但馬皇女は早く亡くなった。巻2-203に皇女を偲んで悲しさを歌っている。その恋も悲しい恋であったらしい。
但馬皇女との悲恋の歌である。

17 但馬皇女  言繁き 里に住まずは 今朝鳴きし 雁にたぐひて 行かましものを 但馬皇女は天武天皇の皇女、母は蘇我赤兄の娘、.穂積皇子とは異母兄弟。この歌は人事のうるさい所に住むより、今朝鳴いた雁の後を追ってあなたのところに行きたい、というもの。異母兄の高市皇子に愛され、思っていた穂積皇子とは一緒になれなかったと言われている。「朝鳴きし」No.18の「今朝の朝明」に掛かるという。穂積皇子との悲恋の歌である。

16 笠金村  波の上ゆ 見ゆる小島の 雲隠り あな息づかし 相別れなば 笠金村が入唐使の出発に際し、別れを惜しんで贈った歌。波の上で小島のように雲に隠れて見えなくなったら、ため息が衝くように悲しいことだ、と詠んでいる。笠金村は宮廷歌人として多くの行幸に同行している。宮廷の行事にまつわる歌が多い。たんたんと宮廷の出来事を詠んでいる歌が多い中、この歌は「あな息づかし」と、自分のとの別れを歌っている。笠金村の中では珍しい歌だと思う。

15 光明皇后  我が背子と ふたり見ませば いくばくか この降る雪の 嬉しからまし 綺麗に降っている雪、この雪を夫と二人で見たならば、どんなにか嬉しいものであろうか、と歌っている。光明皇后は右大臣藤原不比等の娘で聖武天皇の皇后、孝謙天皇の母。民間から皇后となって藤原氏の繁栄を象徴するような人。繁栄の絶頂にあって、言葉使いにも、女性らしさと自分の幸せを感じていることが現われているような歌である。

14 志貴皇子  石ばしる 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも 早春、岩の面を激しく流れ落ちる水、そしてその川の淵ではワラビが生え出している。と詠んでいる。早春の野の川景色をリアルなダイレクトな表現で現している。春になったことを単純に喜んだ歌。何故昔の人はこれほど春を待ち遠しかったのだろうか。今は季節感がないと言われている。冬の衣類や暖房器具も今から思えばないに等しいものっだったかも知れない。食べ物も冬は何があったのだろう。万葉時代の冬は本当に寒く、辛いものだったのかもしれない。

13 天武天皇  紫の にほへる妹を にくくあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも 額田王の歌(巻1-20)に応えた歌。紫の花が匂うような貴方が憎くくあればいいのに、人妻なので、私は恋を出来ない。と詠んでいる。天武天皇が大海人皇子当時の歌で額田王は元恋人。この時、額田王は天智天皇に召されていた。天智天皇と天武天皇は同母兄弟だが、確執が長く続いた。天武天皇が天智天皇の子、大友皇子を倒した壬申の乱も確執の一つであろう。天武天皇の妃は天智天皇の皇女。複雑な人間関係を代表しているような額田王との関係である


12 藤原鎌足  玉くしげ みむろの山の さなかづら 寝ずはつひに ありかつましじ 内大臣藤原鎌足は当時の政権の中枢にあった人。鏡皇女の「人に知られないように夜が明けないうちに帰って欲しい」(巻2-93)という意味の歌に、この歌で「そう言われても、どうしても寝ずにはおれない」と詠んだもの。ダイレクトな表現で、飾るところがないことろが良いと思う。鎌足の歌は万葉集にこの歌を入れて二つしかない。もう一つの歌(巻2-95)も技巧を感じることなく直接的な歌である。


11 鏡皇女  秋山の 樹の下隠り 逝く水の われこそ益さめ 御思いよりは 額田王の姉または舒明天皇の皇女とも言われている。天智天皇との恋愛の後、藤原鎌足の正室となった。この歌は藤原鎌足に、正室になる前に贈った歌と伝えられている。木の下を流れる水が益すように私の恋心の方が貴方より益していると詠んでいる。自分の気持ちを木の下を流れる水に例える細やかさもさることながら、自分を主張する強さを感じる歌である。


10 大伴旅人  妹として ふたり作りし 我が山斎は 木高く茂く なりにけるかも 大伴旅人が赴任地の大宰府から京に帰り、妻を大宰府で亡くした事を偲んで詠んだ歌。妻と二人で作った家の庭に植えた木は小高く繁っているのに、一緒に作った妻はもういない。と寂しさを歌っている。旅人はお酒が好きでお酒の歌も多く残している。この歌は妻がいないことを単に悲しむだけでなく明るく前向きに歌っているように感じる歌である

柿本人麻呂  東の 野にかげろひの 立つ見えて かへりみすれば 月かたぶきぬ この歌は軽皇子(後の文武天皇)が父の草壁皇子を偲んで阿騎野に宿泊した際、同行した柿本人麻呂が詠んだ歌の一つ。日の出前、東の空には光を受けて蜻蛉が立ち始め、振り返って西の空を見ると月が落ちようとしている、という光景を詠んだ。太陽と月と地球。スケールの大きさを感じる歌である。

大伴家持  朝床に 聞けば遥けし 射水川 朝漕ぎしつつ 唄ふ舟人 大伴家持が富山に赴任中の歌。早朝、遠くで舟を漕ぎながら歌う船人の歌を布団の中で聞いている。朝の白い霞みが周囲に掛かり、悠々と流れる川を悠然と舟を漕ぎながら歌を歌う。それを布団の中で聞いているというのも悠々としていていい。悠々と、ゆったりした生活を送りたい、そんな思いにぴったりする歌だと思う。

聖徳太子 家にあらば 妹が手まかむ 草枕 旅に臥やせる この旅人あはれ 聖徳太子は推古天皇の時代に摂政として17条の憲法などを定め政治に携わった人。この歌は聖徳大使が外を歩いている時、旅の人が倒れている人を見つけ食べ物と衣服を与えた、後に様子を見させに人をやったら、亡くなっていたという事を聞いて作った歌のようだ。聖徳太子の慈悲深さを示す歌と言われている。

磐姫皇后  居明かして 君をば待たむ ぬば玉の わが黒髪に 霜はふるとも 磐姫皇后は仁徳天皇の皇后。仁徳天皇が他の女性に恋をしていることに嫉妬したと言われている。嫉妬は誰にでもあると思うが、磐姫皇后の歌は感情剥き出しの歌が多いので、それが嫉妬深いと思わせるのかも知れない。しかし、この歌は、髪に霜が降りても夜が明けるまで貴方を待つという歌で、感情を抑えた優しさのこもる歌だと思う。

持統天皇  春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣ほしたり 天の香具山 香具山の麓に白い衣服が干されている光景を見て、春が過ぎて夏が来たようだと詠んでいる。 持統天皇の歌には人を恋する歌や、人を思いやる歌が多い。この歌は季節の変わり目を庶民の干し物から想像するだけでなく、庶民の生活を思いやっているとも思える。

湯原王  吉野なる 夏実の川の 川淀に 鴨そなくなる 山影にして 吉野にある川の淀みの山影に、鴨の鳴き声が響き渡った。鴨の鳴き声を詠んだ歌。音を想像すると騒がしい音でも静寂さを感じる。鴨の鳴き声が響くというところに、周囲の静寂さが想像できるように思う。音と静けさを対比した歌と思う。

山部赤人  春の野に すみれ摘みにと 来し我そ 野をなつかしみ 一夜寝にける 春の野にスミレを摘み来て、野がなつかしいといって一晩そこに寝てしまった。濡れるとか、風邪を引くとか考えずに、野を懐かしむだけで一晩寝てしまう。今の人がどこかに置いてしまった感覚がこの歌に現れているように思う。

小野老  あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり 奈良が盛りの様子を花の色彩に例えた歌。大宰府から戻って町の人の動きから今が盛りだと感じたのだろう。又、町の活気が花の色彩が鮮やかさと、匂いのように周りに満ちていると歌っている。活気をにおいに例えるのも面白い。それに歌に勢いがあって、ピリッとした語調が心地いい。

額田王 君待つと 我が恋ひ居れば 我が宿の 簾動かし 秋の風吹く 天智、天武二人の天皇に愛された人。万葉時代屈指の女性と書く本もある。秋の郷愁と、人を待つ寂しさを、あたかも待ち人がやって来たように暖簾を動かす秋風で現した歌。天武天皇との間に十市皇女もいた今で言うファーストレディ的な人だが、恋に心を向ける女心だけが見える。








ホームページのTOPに戻る
万葉集のページ ・近代/現代短歌のページ ・四季の草花のページ ・絵画のページ ・音楽のページ ・花のスライドショウ ・絵のスライドショウ ・鎌倉見聞録
管理人のページ ・ロマン-ネット ・リンクのページ ・アンケート







アクセス解析&SEM/SEO講座&ブログ for オンラインショップ開業